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キース・リチャーズ

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キース・リチャーズ、23年ぶりソロ・アルバム 『Crosseyed heart』 が、9月18日にリリースされました。 今回はそのアルバムを中心に,キース・リチャードについて少し語ってみたいと思います。  キースに関しては、深い思い入れを持ったファンも多いので、そういった方たちには 「そんな意見もあるだろ」 ぐらいの気持ちで読んでいただけたなら幸いです。 僕自身は、最近 部屋で最もよく聴くアルバムのひとつです。

昨年のストーンズの来日公演、今でもあの日のキースの笑顔が瞼に焼き付いています。 すごくいいライヴだったし。 でもあれからもストーンズのコンサート・ツアーは続いていたわけで、「いったいいつ録音したのだろう」 というのいうがあって、このリリースに関しては驚いたファンも多いのではないでしょうかね。 実際のところは、ツアー開始前には録音をほぼ終えていたようで、ストーンズのツアーの終了を待ってのリリースということになったようです。



Crosseyed Heart
アルバム冒頭の曲 「Crosseyed Heart」 がどっぷりのカントリー・ブルースで、キース・リチャーズの本気さが伝わっきます。 キースは、自分の音楽の核心がこういったアコースティック・ブルースであることを、あらためて宣言したとも言えるんじゃないですかね。

2曲目の 「Heratstopper」が、ドライヴするロックン・ロール。 弾き語りによるド渋のブルースから、いきなりのハイテンション。あとはもうバラエティに富んだ、豊潤なキース・リチャード・ミュージックの数々が、この大きな振幅の間で展開されていくわけです。





4曲目の 「Robbed Blind」 は、アルバム中では特に好きな曲です。キースのこういったアコースティック・バラードを聴いていると、"修羅場をくぐり抜けてきた者だけが手にすることの出来る優しさ" を感じてしまいます。 トム・ウェイツが作るような "大人のための子守歌" も感じさせてくれて、いや いい曲だと思います。

5曲目の 「Trouble」 がまたロックン・ロールで、アルバムは振幅を繰り返しながら進んでいくわけです。先行シングルとなった曲だけに、キャッチーで気持ちの良い仕上がり。 このドライヴの効いたバッキングは、まぎれもなくキース流のロックン・ロール・ギター。言うまでもなくかっこいいのだけれど、ワディ・ワクテルのスライド・ギターも効いています。

6曲の 「Love Overdrive」は、キースの愛する音楽のひとつであるレゲエのカバー。8曲目のバラード・ナンバー 「Suspicious」は、キースのハスキーなヴォーカルの素晴らしさが際立っています。 これはアルバム全体に言える事なのですが、自然体のキースの歌には、年齢を重ねることによって得た味わいの深さがあるんですね。






他には、ノラ・ジョーンズが曲作りとヴォーカルで参加した曲や、亡くなってしまったボビー・キーズのサックスが聴ける曲などなど、あれこれもであまりにも長くなってしまうので曲解説はこのへんで。 あっ! もうひとつ。 多くのアーチストによって歌われてきた名曲 「Goodnight Irene」 のリストに、キース・リチャードのカバーによる素晴らしいヴァージョンが加わったことも記しておかなければならないですね。

本作もキースの前2作 『TALK IS CHEAP』 (1988) 『MAIN OFFENDER』 (1992) 同様、スティーヴ・ジョーダンが共同プロデューサーとして名を連ねています。バラエティに富んでいながらも、ひとつのアルバムとしてまとまり聞き易さも備わっているのは、スティーヴ・ジョーダンの力によるものも大きいのかなと思います。



KEITH RICHARDS / Trouble (2015)


ロックン・ロールは上等なワインのようなもの
昨年 初めてボブ・ディランのライヴに行ったのですが、ふたりは音楽的にかなり近いところにいるんだなぁ という印象があります。ブルース、カントリー、フォークなどが絶妙にブレンドされた豊潤なアメリカン・ミュージック。 と言ってもキースはイギリス人なわけですが・・・。

エリック・クラプトンなどは、同じイギリス人でありながらここまでの "アメリカンミュージック" を作ってしまったキースに対して、嫉妬すら感じているんじゃないですかね。

クラプトンだって、70年代から何枚もの、"豊潤なアメリカン・ミュージック" 風のレイドバックしたアルバムを作り、近年では土臭いロックの代表格、元ザ・バンドのロビー・ロバートソンと一緒にアルバムを作ったり、あるいはJ・J・ケイルともアルバムを作ったり、といろいろとやってるんですけどね。流麗なテクニックがどこかで邪魔をしてしまっているのかも。


「ロックン・ロールは上等なワインのようなもの。 年を食うほどに味が良くなっていく」。 キース・リチャーズが70年代に言った言葉です。 もう説明は不要でしょ。 今回のキースのアルバムを、何かと新しもの好きのミックはどのように聴いたのでしょうか。
大きな刺激を受けたと信じ、次なるストーンズの展開を待ちたいところです。










Crosseyed Heart/Keith Richards

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山崎ハコ 40周年記念ライヴ in 秩父

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10月29日に埼玉県秩父市で行われた山崎ハコさんの40周年記念ライヴに行ってきました。 今回はそのライヴの模様を交えながら、山崎ハコさんについて。

山崎ハコのライヴ、実は初めてでした。 山崎ハコという名前は、僕にとってはある意味での 『舞踏会の手帖』 に記された名前なのです。 若き日に自分の心を捉えたのだけれど、行くことのできなかったコンサート。行く機会を逃してしまったコンサート。 近年はそういったアーチストのライヴに、自分のあの頃を訪ねるような気持ちで、積極的に行くようにしています。 今も健在で、音楽活動を続けているアーチストに限られてしまうわけですが。

山崎ハコ。 と言うと、初めてラジオで聞いたハコさんの歌は、異様に暗さを感じるものでした。 と同時に、ほかの誰とも比較することのできない自分の世界を持っているシンガー・ソングライターであると。 高校時代のクラスメイトに、彼女の大ファンがいました。 今思えば誘われたときに行けばよかったなぁ なんて思ったりもしますが、何しろ金のない学生時代であったし、優先していたのはロック系のコンサートであったし。

90年代末、所属していた事務所が倒産したというニュースはテレビのワイドショーで聞いた記憶があります。それからしばらくして 山崎ハコがアルバイトをしていて、生活が困窮しているという話を誰かから聞きました。「あの山崎ハコが?嘘だろ!」 と、彼女の活躍した時代を知る人なら誰もが思ったはずです。

また同じ頃、僕がたまに行ってた渋谷にあった小さなバーで、そこはブルース系の生演奏をやる店だったのですが 「山崎ハコがひとりで営業に来た」 という話を常連の客から聞きました。 山崎ハコを知らない若い店主は、あろうことか出演を断ってしまったんですね。

またその時代、彼女の歌のファンである役者の宇梶剛士さんは、マネージャー役を買って出て彼女の歌う場所を見つけるために一緒に営業してまわったりもしたそうです (この話は数年後に聞きました)。10代でデビューして音楽の世界で生きてきた彼女が、事務所の倒産により収入を絶たれ、他に生活するための手段を知らないままに世の中に放り出されてしまったわけですからね。 ハコさんにとっては厳しい時代であったと思います。

でも山崎ハコは、今さら僕が言うまでもなく本物のシンガー。 宇梶さんを例に出すまでもなく、「彼女の歌を聴きたい」 と言う人は全国にいて、そういった人たちの心には彼女の歌が深く刻まれていたんですね。





山崎ハコ 40周年記念ライヴ in 秩父
今回、埼玉県の秩父という奥地で(秩父の方、ごめんなさい)、またなんでコンサートを、と思ったのですが、恩義があったようです。その苦しい時代に呼んでくれて、今回もコンサートの協賛のひとつとなった、秩父市の小鹿野ひまわり保育園で歌ったことがあるのだそうです。 MCでは、秩父の方たちへの「元気でやっている」という報告と、「あの時はありがとう」 という感謝の気持ちを伝えたかった、そういった事を言ってました。

-セットリスト- 
 1.望郷
 2.白い花
 3.織江の唄
 4.ヨコハマ
 5.新月
 6.花は咲く (with 松葉美保 & ゴスペラ・ミュー)
 7.横浜ホンキートンク・ブルース (with 松葉美保)
 8.リンゴ追分
 9.空の船
10.歌っこ
11.縁 ~えにし~
12.愛しき大地
 (アンコール)
13.気分を変えて
  (2015年10月29日 秩父歴史文化伝承館ホール)

ステージに登場したハコさんは、やはりとても小柄な女性でした。 収容250名ほどの小さな会場だったので、間近で聴くことが出来たのですが、最初は明らかに緊張した面持ちでした。
一曲目の 「望郷」 という曲は、75年のデビュー・アルバムのトップに収録された曲。ライヴでは長年この曲から始めることが多いのだそうです。

15歳で大分から横浜へ。 それは家の事情であったそうですが、大好きであったおばあちゃんを残してきたため、気になっていつも会いたいと思っていた、とMCではそう語っていました。 "青い空と白い雲、かけまわり遊んだふるさと"。 「望郷」 はまさに望郷の歌。

でも横浜と言う土地は、自分を受け入れてくれたような気がしていつしか好きになっていったのだそうです。 山崎ハコと言えばやっぱり横浜。僕も横浜は大好きで、今でもたまに遊びに行きますが、長い髪の美少女だったハコさんと横浜の風景は、これ以上ないほど似合っていたと思います。

「望郷」 は名曲なのですが、故郷を持たない僕のような人間にとっては、「ヨコハマ」 のほうが好きかな。




山崎ハコ / ヨコハマ


6曲目 7曲目で共演された松葉美保さんと言う女性は、現在は秩父在住のシンガー。 今回のライヴを企画し、友人でもあるハコさんに 「秩父でやりませんか」 と声をかけたのだそうです。原田芳雄さんのバンドでバックコーラスを務めたことがある彼女は、そういった縁からかハコさんとは親しいようです。

ハコさんにとっての原田芳雄さんは、芸能界での父親的な存在であったそうです。 今は亡き原田さんへの思いを、「縁」 と言う曲の前で時間を割いて語っていました。 原田さんは 「こちらからは開かない扉の向こうに行ってしまったけれど、いつか自分も扉の向こうに行き、会うことができるのではないか」 そのようなことを語っていました。そして 「おまえ、歌へたになったな」 と言われないように、まだこっちで頑張ってみる。そのようなことも仰ってました。

ハコさんの歌というのは、流行にまったくとらわれず、一本気なところがあり深いんですね。 だから 「りんご追分」 のような、普通の歌手ではなかなか歌えないような曲を歌っても説得力があるんですね。そして昔から役者とか作家とか、玄人に好まれていたような印象があります。

山崎ハコを語る時に必ず出てくる表現として 「小さなからだながら力強い歌声」 というのがあります。 実際、からだは強くはないようですが、おそらく歌い始めた最初から、自分の歌を出し切る術というのを身につけていたのではないかと思うのです。それから歌の世界に没頭し続けることのできる集中力のようなものも。 そういった意味では、天性の歌手なのだと思います。

MCでは冗談も交えながら明るくしゃべり、笑顔も多く見られました。 苦しい時代を経て、現在は前向きに活動をされているようです。ハコさんの曲に 「歌いたいの」 という曲があるのですが、このシンプルな "歌いたいの" という言葉が、これほどまでにストーレートに人の心をとらえる歌手は他にいないような気がします。

近年、ギタ女(ぎたじょ) なるくくりで、アコギを持って歌う女性シンガー・ソングライターが増えてちょっとしたブームになっているそうです。 YUI の出現あたりがきっかけになったようです。アコースティック・ギターを買う女性も増えているのだとか。けっこうなことだと思います。

今回のライヴでは、彼女の歌に年齢的な衰えを感じることはありませんでした。 若い女性シンガーたちには、山崎ハコの歌をライヴで聴くことを薦めます。 歌い切るとはどういうことなのか。歌に向かっていくとはどういうことなのかが、きっとわかると思いますよ。




山崎ハコ / 気分を変えて
公私ともにパートナーである安田裕美は、日本を代表するアコギの名手。 中島みゆき、井上陽水、中村雅俊 などの多くの曲でギター・サポート。 ライヴでは、陽水のアルバム 『氷の世界』 での名演の本人による再演をさわりで聴かせてくれました。 これには鳥肌でした。


にひひ
ライヴが終わりロビーで少し待っていると、やはりハコさん出てきました。 わたくし、こういうときは図々しいのです。 関係者やら知り合いやらと談笑する輪に少しづつ近づき、隙をみて業界人づらして 「お疲れ様でした」 と手を差し出しました。 もちろんハコさんは 「ありがとうございます」 と笑顔で握手してくれました。 これはうれしかったですね。 たとえその笑顔が 「あれ、このひと誰だっけ? 思い出せない。とりあえず笑っとこ」 的な笑顔であったとしても (^_^)v











飛・び・ま・す/山崎ハコ

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縁-えにし-/山崎ハコ

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山崎ハコ ライブセット/山崎ハコ

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Anthology 山崎ハコ best/山崎ハコ

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幻想

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「愛」 とは強きもの

その言葉に疑いはないであろう

けれど、時に愛は

その裏側にある 「憎しみ」 を表出させる

それは 「愛」 をも焼き尽くしてしまう炎となることも


「裏切り」

この世で最も恐ろしい言葉のひとつだ

人間の欲望によって行動となるそれは

時に人を天国から地獄へと突き落す


人が人として生きていくためには

政治も思想も、宗教も必要なものであろう

それが争いを生み出す元凶であったとしてもだ



僕らに必要なものは何なのだろう

子供たちに伝えるべき本当に大切なものは・・・


「神」 は 「愛」 である、と説く人もいる

強すぎるのではないだろうか

「憎しみも」 も 「愛」 も

「やさしさ」 も 「裏切り」 も ・・・

すべてを包むことのできる 「寛容」 こそが

「神」 の最も近くにある言葉なのではないだろうか ・・・




オフ・コース / 幻想 (1975)









バード・オブ・パラダイス

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スノウィ・ホワイト
SNOWY WHITE
『 バード・オブ・パラダイス / Bird Of Paradise 』




キミが飛び去ってゆくのを見たんだ
ターコイズ・ブルーの閃光どこまでも
キミとともに生きてゆこう

僕の楽園の鳥よ
やさしいパラダイスの鳥よ

僕も空を飛べたら
今すぐキミのそばに行きたい
でも 今の僕にできることは
ため息をついて 空を舞うキミを見つめるだけ

僕の楽園の鳥よ ・・・

旅立って行くというのかい
今度はいつやってくるんだい
そしたら雨の中で
遊ぶキミの姿が見れるね

僕の楽園の鳥よ ・・・

saw you flying by
flash of turquise Blue
I jusu hard to try
To keep your life in view

My bird of paradise
Sweet bird of paradise

I'd beside you now
But I can only sigh
And watch you circle round

My bird of paradise ・・・

So you fly away
When will you come again
So i can watch you play
In the pouring rain

My bird of paradise ・・・






1983年リリース。 スノウィ・ホワイト、ソロとしての 1st.アルバム 『WHITE FLAMES』 に収録されたスノウィの自作曲。 シングルとしても全英最高位6位を記録。 百花繚乱たるエレクトロ・ポップ全盛の当時のイギリスにおいては、曲調からするとかなり異例のヒット曲であったようです。

スノウィ・ホワイトは1948年イギリス・デヴォン州出身。10歳でギターを手にしたといいますが、すぐにブルースに傾倒しています。70年代、ギタリストとしてセッションの仕事をこなしていくうち、77年にピンク・フロイドのツアーにサポート・ギタリストとして参加。 この頃には「ギルモアの影さえ薄くなる」 と言われるほどに、実力をつけています。

そのツアーでのプレイを見たシン・リジーのスコット・ゴーハムの誘いにより、シン・リジーに正式メンバーとして参加。 2枚のアルバムの録音に参加した後、82年にグループを脱退。 ソロとなった最初の作品で、自身最大のヒット曲 「Bird Of Paradise」 を出すことになります。






この曲はリリースされた当時、ラジオで聴いてすぐに好きになりました。 ブルース・ギターを好む方なら、スノウィのプレイからすぐにB.B.キングやピーター・グリーン、あるいはオーティス・ラッシュらの影響を感じ取ることが出来るでしょう。

スノウィのトレード・マークである、レスポール・ゴールドトップの美しい音色によって奏でられたむせび泣くようなプレイは、現在でも色褪せることのない宝石のような輝きを放っています。 ちょっと大げさに思う方もいるでしょうが、日本人の琴線に触れるような所があるのは確かだと思いますよ。




SNOWY WHITE / Bird Of Paradise (1983)


スノウィ・ホワイトは、サラサラの髪(しかも金髪)にやさしそうな笑顔をもった美青年ギタリスト。 音のほうも繊細さを感じるものであったし、どうしてもシン・リジーというバンドには合わないギタリストであったと思います。

ワイルドで男っぽいイメージを持った・フィル・リノットとスコット・ゴーハムと同じステージに立っていたというのが不思議です(逆に言えばそれも面白いのか)。 ハードなシン・リジーの音楽性と合わなくなっていったのは当然とも言えますが、ソングライティングなどでもグループに貢献したようです。

スノウィ・ホワイトは、90年代以降もロジャー・ウォータースのツアーに参加したり、並行して自身のバンドでも精力的に活動。 その評価の高さからすると日本での知名度が低いのが残念です。





【ライヴのお知らせ】 カラオケ
これ以下は記事の内容とまったく関係ないので、期限が過ぎたら削除する予定です。

ワタル マーキー出演 400回記念!スぺシャル ライブ! 
場所: 江古田マーキー (東京都練馬区 西武池袋線江古田駅下車徒歩5分)
   (03-3994-2948)
日時: 11月25日(水) 19:00 ~ (開演)
入場料: 1000円(ドリンク別)
出演: 大橋渡(ゲスト: ヤン保坂)・清水洋平・小林克司

この大橋渡というのが、僕の大学時代からの友人でフォーク系のシンガー・ソングライターです。 フォークの老舗とも言えるライヴ・ハウス マーキーにずっと出演を続けていて、今回出演400回目ということで、お祝いに駆けつけると言う形で、ワタクシ(ヤン・保坂)がギターでサポート参加します。1曲だけなんですけどね。 ちょっとブルースっぽい味付けをギターでしてみます。

時間に余裕のある方で 「いつも偉そうな記事を書いている やん ってどんな野郎なんだ! ツラが見てぇな」 と言う方はぜひお越しください。「ブログで見た」 と、声をかけてくれたならコーヒーぐらいはおごります (o^-')b 

で、この大橋という男は、地元静岡の地域FMに自分の音楽番組を持っていて、局でのスタジオライヴをやるぞ! ということで話がすすんでしまいました。 本当にやれるのかはわかりませんが、いずれにしろゲストで出演して、お薦め曲をオンエアする予定です。地域FMと言っても、現在はインターネット・ラジオで全国で聴けるようなので。 それについてはいずれまた。
(^_^)v









ストーンズが聞こえた街

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先日 都内北千住にあるシアター1010という会場で行われた、世良公則のソロ・アコースティック・ライヴに行ってきました。 その時の模様も交えながら今回は世良公則について。

70年代末から80年代初めにかけて活躍したツイストというバンドを知る人は、それなりの年齢の方であると思いますが、あの時代 多くのヒット曲を出し、テレビにの歌番組にも頻繁に出ていた世良公則の人気はかなりのものでしたよね。

ハスキー・ヴォイスでパワフルにシャウトする姿は、当時 「抱かれたい男・ナンバー・ワン」 (でしたっけ?) にも選ばれて、女性からの人気も大変なものであったと記憶しています。 原田真二、チャー 等と共に、新しい世代の 「ロック御三家」 としてメディアにとりあげられ、テレビに出演するロック・バンドの先駆けのような存在でもありました。






僕自身はどのように思っていたかと言うと、白状してしまえば、商業的なロック・バンドとして少し下に見ていた気がします。 "テレビ拒否" をするアーチストがかっこよく見えたりする時代でしたからね。 反体制とかカウンター・カルチャー云々を語ると長くなるので今回はやめておきますが。

でも今思うと、体制側とも言えるテレビ局に乗り込んで、そのスタジオにマーシャル・アンプを持ち込み "ガッキーン!" と歪んだギターの音を鳴らし、スネアの音を "パーン!" と響かせたこと自体が、当時としてはじゅうぶんロック的な行為であったと思います。 そのあたりは、僕自身が単純な思考しか持たない子供であったためその時はわからなかったんですね。

1981年にツイストが解散し、ソロになってからは上手くいかなかった時代もあったとは思いますが、世良公則は現在も現役バリバリのロッカーとして活躍しています。 売れる売れないというのは、単に現象面のこと。 それは音楽の価値とは関係ないものであるし、むしろ真価を問われるのはブームが去ったその後。 本物であることは、もうすでに証明されています。




GUILG9 / 銃爪
バンドとしては、GUILD9 という名義で活動しています。 海外のミュージシャンを集めた TWIST INTERNATIONAL を結成し、武道館でライヴ(2003年)を行ったことも。 それにしてもロック・ヴォーカリストとしての力量は、日本の中ではもう圧倒的ですね。


世良公則 ソロ・アコースティック・ライヴ 2015

 ー セットリスト ー
1. ストーンズが聞こえた街
2. TWO HEARTS
3. I'm Calling You Now
4. Heart Is Gold
5. ゼッタイ フューチャー
6. 宿無し
7. バラ色の日々
8. 4月の風
9. ずっと好きだった
10. Jacaranda
11. そっと ... KISS
12. 銃爪
13. 陽ハ昇ル
14. 歩み そして ... 明日
15. バラードが聴こえる
16. いつものうた
17. アイノウタ
18. あんたのバラード
19. 燃えろいい女
 (11月14日 シアター1010)


おなじみのジーンズにT-シャツ、頭にバンダナを巻いたラフなスタイルで登場。若いです。 途中数曲でもうひとりギターのサポートがあったものの、基本的には自身のアコースティック・ギター1本によって行われました。

1曲目は 「ストーンズが聞こえた街」。 もうあの世良公則のド迫力の歌でした。声量豊かなので、700席ほどの会場では、PAなしでもいけるのでは、なんて思えるほどです。 年齢的な衰えのようなものは感じませんでしたね。

そしてアコギがまた凄い! ピッキングの際のアタック音が "ザクッ ザクッ" といった感じで非情に強いのです。アコギ1本でも、じゅうぶんロックを感じさせてくれるものだし、本人もそのつもりでしょう。 今まで多くのアコースティック・ギターのライヴでのプレイを聴いてきましたが、これだけ強く弾くひとは初めてですね。

弦は切っていないようでしたが、ピックは 「あっ割れた」 なんて言ってテーブルに並べられていたピックと普通に交換していました。 あれだけ 強く弾いたら簡単に割れるでしょうね。 でもフィンガー・ピッキングによるフォーク調の曲も弾いていたし、アコギの腕はかなりのものです。



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世良公則 feat. つるの剛士 / いつものうた
最新シングル 作詞/作曲 奥田民生


世良公則には 「気さくで男っぽいひと」 というイメージをずっと持っていましたが、MCで感じたのはまさにそういったものでした。 なんというか嫌味がなくて、男としては喜んで友達になりたいような奴って感じでしょうか。 途中カバー曲を数曲やったのですが 斉藤和義の 「ずっと好きだった」を選んでいる所がまた、らしさとも言えるのか。

ひとつ本人の強い主張を感じるMCがあったのですが、それは 「俺はおやじバンドという言葉が大嫌いだ」 と言ったことです。 続けて 「ガキには出来ない大人のロックン・ロールというものがある」 と強い口調で言ったんですね。ちょっと驚いたのですが、この言葉には説得力があり迫力も感じて、なんだか嬉しい気持ちにもなりましたね。 キース・リチャーズがいつも言っている言葉と重なりました。

「ロックは生き様だ」 なんて言葉は現在はもう死語なのかもしれませんが、1曲目に 「ストーンズが聞こえた街」 という自らのルーツを語る曲を歌っているところに、昔気質を感じます。 世良さんももうすぐ60歳だそうですが、15のときの衝動を忘れずに音楽をやっているんですね。 いい意味で少年っぽいひとなのだと思います。




音屋吉右衛門 / ストーンズが聞こえた街 (2015 Live in Osaka)
世良公則 × 野村義男 によるアコースティック・ユニット。 2015年3月 大阪でのライヴ。



「ロックン・ローラーやってます」 なんて自らを語るのを 「カッコつけすぎなんじゃないの」 と昔は思ったりもしていました。 でも、あれから30年以上が経ち、ぶれることなくロックし続けている世良さんを目の当たりにして、「おい、老け込むにはまだ早すぎるんじゃぁないのか!」 と肩を掴まれて揺さぶられたような気がした、そんな夜でした。

「また ぼちぼちとギターを弾いてライヴをやっていこう!」 と決めましたよ。
世良さんには感謝ですね (b^-゜)





【ライヴのお知らせ】 カラオケ
これ以下は記事の内容とまったく関係ないので、期限が過ぎたら削除する予定です。

ワタル マーキー出演 400回記念!スぺシャル ライブ! 
場所: 江古田マーキー (東京都練馬区 西武池袋線江古田駅下車徒歩5分  03-3994-2948)
日時: 11月25日(水) 19:00 ~ (開演)
入場料: 1000円(ドリンク別)
出演: 大橋渡(ゲスト: やん)・清水洋平・小林克司

やん! ギター弾きます。
出番は20:00ぐらいか。 時間に余裕のある方はお越しください m(u_u)m




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想い出のフォトグラフ

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リンゴ・スター
RINGO STARR
『 想い出のフォトグラフ / Photograph 』


音譜
君の顔を見るたびに
いつも心に浮かんでくる
かつてふたり行った場所
でも 今手元にあるのは一枚の写真だけ
君はきっと帰って来ないだろう

君が行ってしまった日には
僕は何とかなるだろうと思った
けれど 君が帰って来なければ
やり遂げることなど出来はしない

Every time I see your face
It reminds me of the places we used to go
But all I've got is a photograph
And I realize you're not coming back anymore

I thought I'd make it the day you went away
But I can't make it, 'til you come home again to stay
音譜 (歌詞抜粋)


1973年発表、リンゴ・スター通算3枚目のソロ・アルバム 『リンゴ / RINGO』 に収録。 リンゴ・スターとジョージ・ハリスンの共作ナンバー。 シングルとしては全米最高位1位を記録しています。


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11月29日は、ジョージ・ハリスンの命日にあたります。
旧ブログ時代の3年ほど前に、リンゴのヒット曲として一度取り上げた曲ではありますが、今回はジョージに重点を置いて新たに記事にしてみました。

リンゴ・スターは、言わずと知れた元ビートルズのドラマー。 1970年、そのビートルズ解散後、ジョン、ポール、ジョージの3人は、リンゴがひとりでやっていけるかどうか心配していたそうです。 しかし数字で見る限り、70年代前半に7枚ものトップ10ヒットを出し,元ビートルズの中ではチャート上においては最も安定した活躍を見せていました。 73年には 『リンゴ』 という完成されたポップ・アルバムを発表するに至ります。

このアルバムには、ジョン、ポール、そしてジョージも参加し、文字通り 「ビートルズ」の4人が解散後初めてアルバム上でそろい踏みする形となりました。 またアルバム・ジャケット上でも4人が姿を揃えています。 これにより、当時は 「ビートルズ再結成か」 という話題が現実味を持って語られたりもしたそうです。 実際のところはリンゴの人柄によるところが大きく、今さらの話ですが、3人ともリンゴが大好きであったということなのだと思います。



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特にジョージはアルバム 『リンゴ』 には3曲も提供し、うち1曲の 「想い出のフォトグラフ」 ではリンゴと共作し、バック・コーラスでも参加。 12弦ギターも弾いています。 これ以前にもジョージはリンゴの曲をプロデュースしているので、解散後のメンバー間の交流としては二人は最も頻繁であったのがわかります。

もともとリンゴをビートルズのメンバーとして誘う際、もっとも積極的であったのがジョージであったというのは有名な話です。 リンゴはビートルズ加入以前からリバプールでは有名なドラマーであったので、その腕を買ってのことであるのは確かでしょうが、感性の鋭いジョージはリンゴの人柄を見抜き、グループがまとまる上で必要な存在であると直感として感じたのかも知れません。

ところで、結果的にグループからはじき出されたドラマー ピート・ベストと、ジョージは晩年に会う機会を得て、リヴァプールのカフェで再会したそうです。 ピートにいつか謝りたいとずっと気にかけていたというあたりに、ジョージらしい優しさを感じます。




RINGO STARR / Photograph (1973)


リンゴとジョージという事では、2011年に公開されたジョージの伝記映画 『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』 でのシーンを、やはり思い出してしまいます。 リンゴとジョージが一緒にテレビ出演した際のふたりの微笑ましいやりとり。 そして亡くなったジョージをリンゴが回想して涙ぐむ場面には、観ているこちらも熱いものがこみ上げてきてしまいました。

この 「想い出のフォトグラフ」 の歌詞を見ると、まるで現在のリンゴがジョージを想っての歌のようにも思えます。 2002年のジョージの追悼コンサートではリンゴはこの曲を捧げています。

リンゴにとってふたりで作ったこの曲は、まさにジョージとの 「想い出のフォトグラフ」 なのでしょう。







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イマジン

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1980年12月8日。
あれからもう35年ということになります。 ジョン・レノンについてはもう書き尽くしてしまった感もあるので 「今年はやめようかな」 なんて思っていたのですが・・・。

11月13日に発生したパリ同時多発テロの翌朝、事件現場のひとつであるバタクラン劇場の前で、自転車でピアノを運び込んだ男が 「イマジン」 をピアノ演奏しました。 多くのニュースで紹介されたのでご存知の方も多いでしょう。

あの 9. 11 の時もそうでしたが、こういう時って 「イマジン」 なのかなと思います。あんな惨い事が起きれば大多数の人間は感情的になりますよね。 「殺っちまえ!」 「やられたらやり返せだろ」 と。 そして国民の多くも政府を支持します。

「イマジン」 には、感情的な行動を抑制する効果があるんですね。 そして癒しの力もあるし。 でもそれを面白くないと思う人間もいて、どこからかの圧力によって放送自粛となったり。 そういうことがかつてはありましたよね。

宗教団体とはとても言えないカルト集団が、「神の名を利用して暴力や憎悪を正当化している」 ということは私にもわかります。 でも歴史を遡っていけば、その芽は大国のエゴによって生み出されたものであることもわかります。 あの集団の思想の根っこには 「恨み」 というものもあるわけです。

ジョン・レノンは 「暴力は暴力しか生まない。 それは不変の法則だ」 と言うメッセージを発していました。 軍事行動によっていっとき根絶することができたとしても、やり方を誤れば憎しみは残り、またどこかに同じような過激派集団設立を招くと指摘する人もいます。 もっと長期的で根本的な解決に至る戦略が必要だということなのでしょう。


混迷の時代です。 ジョン・レノンが生きていた時代と比べると、あまりにも複雑でわかりにくくなっています。 それでも、ジョンだったらどんなメッセージを発しただろうか、と考えてしまうのです。















ベストヒットUSA 80's

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年末なのであといくつかの記事は楽しくいきましょか。
ってことで、『ベストヒット USA』。 現在もBSにて放送されていますが、やっぱりあの番組は80年代でしょ。 僕等洋楽ファンにとっては、まさに黄金の80年代。 次から次へとアイディア豊富で多彩なヒット曲が生まれていた時代。 中には 「こんなの出来ちゃいました」 みたいなヘンテコな曲もありましたが、それも含めてやっぱり80's !

現在も番組進行を務める小林克也氏による番組の第一回放送は、1981年4月4日。 そして記念すべき最初の1位は、ジョン・レノンの 「ウーマン」。 この第一回放送の記憶はちょっとあいまいなのですが、「ウーマン」 のPVをあの番組で見た記憶はあるので、番組スタート当初から見ていたのは間違いないと思います。

洋楽の情報がまだまだ少ない時代、毎週楽しみだったんですよね。あの番組の魅力は何といってもアメリカの最新ヒット曲が映像付きで聴けるところ。 そして小林克也さんのネイティヴな英語が番組の雰囲気をより本物っぽくしていたのです。またムダなしゃべりのないところがクール! 私、あの英語に憧れて 「小林克也のアメリ缶」 という英語教材を買って勉強したりしました。




OLIVIA NEWTON JOHN / Physical (1981)
ビルボードでは10週連続1位であったのに、ラジオ & レコーズという音楽誌に基づいていた 『ベストヒットUSA』 では1位を獲得していません。そのあたりも番組の特徴のひとつか。


記憶をひも解いていけば、楽しかった番組内容が次々と思い出されていきます。 家庭用ビデオデッキが普及して、音楽が映像と結びついていった時代。 オリヴィア・ニュートンジョンの 「フィジカル」 は、当時アホな大学生の一員であった僕等には忘れられない曲(映像)なのです。間違いなく 『ベストヒット USA』 で見たのが最初です。

70年代のオリヴィアは清純なカントリー・シンガーといったイメージであったのに、セクシャルな内容を持った「フィジカル」 では大きくイメージ転換。 おそらくあの時代の大学生の狂乱コンパにおいては、あの踊りは宴会芸として全国で数多く採用されていたことでしょう。
それにしても、なんであんなことやったかねぇ (;^ω^A




STAR OF THE WEEK
ゲストにインタビューするという 「STAR OF THE WEEK」 というコーナーも楽しみでした。 「えっ? ホントに!」 といった感じのその時 旬であるひとも出てきたりして。話の内容はあまり憶えていませんが、強く印象に残っている人はたくさんいます。

マドンナ、U2、シンディー・ローパー、シーナ・イーストン、ブライアン・フェリー、デュラン・デュラン、ホール & オーツ あたりはよく憶えています。当時アメリカで活動していた矢沢永吉が、チャートインしていないにもかかわらず出演していたのも印象に残っています。 あのコーナーに出演すると、翌週そのアーチストのレコード売り上げが大幅に伸びたりといったことが実際あったそうなので、番組の影響力は大きかったのでしょう。



これが "ハリウッド・スマイル"


何と言っても強烈だったのはシンディ・ローパーですかね。あのファッション、髪形からしてそうなのですが、とても茶目っ気があって顔の表情が豊かなんですね。 歯をむき出しにしてニカッと笑うのを、シンディいわく "ハリウッド・スマイル" と言うのだそうです。今年、「ターミネーター」 の最新作を観たとき、シュワちゃんが同じような笑顔を物語の中で見せたのですが、やはり可笑しくて変な笑顔で,すぐにシンディを思い出してしまいました。

シンディは、あれをグラミー賞受賞式でハリウッドに行ったとき学んだのだそうですが、番組内では小林克也さんに 「一緒にやりましょう」 といった感じで強要したのです。いやぁ あの時の克也さんの困った様な引きつった表情が可笑しくて今でも瞼に焼き付いています。




CYNDI LAUPER / Girls Just Have To Fun (1984)
親日家であるシンディ。何度もコンサート行きました。今でも大ファンです。



みなさんそれぞれに思い出の曲、PVがあるかと思います。ヴィジュアル的にインパクトがあったカルチャー・クラブやデュラン・デュラン。言う必要もないであろうマイケル・ジャクソンのPV作品群。 アイリーン・キャラの 「フラッシュダンス」 や、ポリスの 「見つめていたい」・・・ 思い出せば切りなく出てきます。

当時いくつもあった、洋楽PVを放送するテレビ番組の中でも長く人気が続いたのは、余計な情報を排して割と淡々と音楽映像を放送した番組であったからなのかなと思います。飽きがこない番組づくりとでも言えばいいのか。 余計な情報がない分、番組で語られる内容は確かなものであるという説得力があったように思います。

と言うことで、『ベストヒット USA』 と言えばやっぱりこの曲ですよね。
克也さん!




VAPOUR TRAILS / Don't Worry Baby (1979)
「80年代はビデオの青春時代だった。あのイントロ30秒聴くだけで、この時代にタイムスリップできる。ウソかホントかやってごらん」 小林克也










ラジオで行こう!

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前回は映像と音楽が結びついていった時代の話。今回はラジオの話。
MTVが登場する以前の、70年代、60年代、50年代、それより以前もきっとそうでしょう。 テレビというものが登場してからも、音楽を楽しむという行為にとってはラジオが重要なメディアだったわけです。

僕自身の家にも当然ラジオはありました。 父が所有していた小型のトランジスタラジオです。 ステレオにくっついていたラジオは真空管式でした。テレビも真空管式でしたが、独特の温かみがあるいい音でしたね。

中学生になるころには、そのトランジスタラジオはほぼ僕のものになっていしまい、ほんとよく聴いていました。さらにラジカセというものを買ってからは、ラジオの音楽番組ばかりをチェックする日々でした。

歌謡曲もフォークも洋楽も、何でもよく聴いていましたよ。 途中からは洋楽、特にロックをよく聴くようになっていったのですが。




ELIVIS COSTELLO & THE ATRACTIONS / Radio Radio (1978)
長い間、単純なラジオ賛歌だと思っていました。「ラジオから流れるポップ・ミュージックはつまらなすぎる」 という内容を持った曲。 パンクという当時の時代背景を感じます。


少ないおこづかいでは多くのレコードを買えないので、ラジオから好きな曲を録音して楽しむという、僕の世代では当たり前のことに多くの時間を費やしていました。 あれは楽しい行為でしたね。 最初はAMラジオ局のベストテン番組。 洋楽を良く聴くようになってからは、音質のすぐれたFM放送。

洋楽ファンにとっては、海外からの情報が少なすぎる時代でした。 変な言い方ですが、動くアーチストを観る機会自体が少ない時代でした。 たまにNHKの 「ヤングミュージック・ショウ」 で、海外のロック・ミュージシャンのライヴとか放送されたりすると、ひとつの情報も逃すまいと食い入るようにして観ていましたからね。

一応若い人のために書いておくと、インターネットなどもちろんなく、あの時代の人たちからするとネットなどというのはSFの世界です。DVDプレイヤーももちろんありません。




BAY CITY ROLLERS / Turn On The Radio (1979)
こちらは「ラジオをつけろ!」 と歌っています。 レスリー脱退後、ダンカン・フォール加入後の曲。声質そのものにロックを感じさせる素晴らしいヴォーカル。 あのBCRでさえ、この時代はパンクからの影響を感じます。


海外のアーチストの来日公演は増えてはいましたが、金のない学生には多く行けるものではなかったし。 それではどうしていたのか・・・・ ミュージックライフなどの洋楽雑誌の写真を見ながらレコードやラジオからの曲を聴き、映像を想像するのです。

80年代になっての映像付き音楽には功罪あります。 これはさんんざん言われてきたことではありますが、罪としては聴き手の想像力を奪ってしまうということです。 曲のイメージを限定させてしまう恐れもあるということです。 ラジオって、音楽に限らず聴き手が想像して頭の中に像を結ぶもの。 DJのしゃべりから表情を想像したり、スポーツ中継からはアスリートの動きを想像したり。
それって大切なことでしょ。

ということでタイトルに戻り、ラジオで行こう!
たまにはラジオもいいですよ (o^-')b




RC サクセション / トランジスタラジオ


やんのラジオ体験
ラジオには過去に5,6回 出たことがあります。外資系CD店・Vに勤めていた時代です。 地方のラジオ局でしたが、会社提供の音楽番組に店のスタッフとして出演して、オススメ曲をかけるといったものでした。

その後、東京のFM局などでも、タワーやHMVのスタッフがお店バイヤーのオススメ曲として曲紹介し、出演したりしていましたね。 CDが売れていた時代、毎日音楽に触れているお店スタッフにはちょっとしたカリスマ性もあったんですね。

今回、私 やんの、音楽活動再開の狼煙として、静岡の地域局 FM-Hi に昨日15日に行き収録してきました。友人が担当するコーナーにゲスト出演して好きなクラプトンの曲をかけて紹介し、そして番組のスタジオでその友人とギター2本で演奏までしてしまいました。

いや~ 楽しかったです。 にこるっちさん、励ましメッセありがとう!
地域FMといってもインターネット・ラジオで全国で聴けます。 放送は来年1月となりますが、詳細は後日また本グログを通じて。



想い出のビートルズ

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クリスマスツリー
う~ん、クリスマスですか ・・・
だからといって無理にクリスマス記事にしなくてもいいとは思っていますが・・・

朝起きたら枕元にクリスマス・プレゼントが・・・ なんて洒落た記憶はありません。 でも両親は何かしらは買ってくれました。小さい頃はおもちゃとかゲームとか。 少し大きくなってからは本とかね。

中学1年生のとき、父親が 「これで好きなもん買ってこいよ」 といって、ポーンと5千円くらいくれたのがクリスマス・プレゼントとしては最後だったかな。 それで買ったのがビートルズのレコード。 だから初めて買ったビートルズのレコードは、一応クリスマス・プレゼントとしてということになるのです。

この時は何の迷いもなかったんですよ。 ビートルズの「赤盤」 と 「青盤」。 ラジオからせっせと録音していたビートルズの曲を、ついにレコードで聴く日が来たんですね。2つ下の弟もビートルズ・ファンに洗脳していたので、弟と合わせて2つのアルバムを買ったのです。

それまでラジカセのショボイ音で聴いていたビートルズを、居間にあったステレオの大きな音で聴いたときの感動・・・。 素晴らしいビートルズ・ナンバーの数々が、部屋の空気全体にぱーっと広がっていくような感じとでも言えばいいのかな。


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ロック史上最強のベスト盤と言われる 通称 赤盤(The Beatles 1962-1966) と 青盤(The Beatles 1967-1970) は、1973年4月の発売。 僕らビートルズ第二世代にとっては、思い入れの深いアルバムです。 いきなりすべてのアルバムを揃えることなどできないわけですから、代表曲がほとんど含まれたこの2つのアルバムからビートルズに入ったというひとが多いわけです。

赤盤・青盤、合計54曲。 「ラヴ・ミー・ドゥ」(赤盤) に始まり 「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」 (青盤) で終わる名曲の数々が、怒涛のように押し寄せてきます。弟とふたりで、あの冬休みの間中はずっと聴いていました。音楽にあれだけ純粋に浸っていた時間って、あれ以後あったかなぁ と思います。 でもね・・・

赤盤。 当時は 「イエロー・サブマリン」だけは 「何だかなぁ」 と思っていたのです。あの鼻にかかったリンゴの声でいきなり始まる "いんざた~ん♪・・・" に抵抗がありましたね。 アナログ・レコードの時代なので、リモコンでピッと飛ばすことも出来ず、針を上げにいくのも面倒で聴いていました。でも現在は・・・・やはり微妙 (^_^;)

青盤。 当時は 「オールド・ブラウン・シュー」 だけは、「この曲知らないんだけど」 といった感じで、やはり「 何で?」 と思っていました (そう思ったひとはけっこういたはず)。 ジョージ・ハリスン選曲と伝えられていたので 「ジョージめ、ちゃっかり入れたな」 と思っていました。 でも今は、アルバム中でも好きな曲の上位にランクされています (^ε^)♪


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ところであの頃 "ビートルズ・フェスティバル" というものが定期的に行われていて 「ヤァ!ヤァ!ヤァ!」 「ヘルプ」「レット・イット・ビー」 のビートルズ映画3本立てが劇場上映されていました。 地方都市でも行われていたようですが、東京では有楽町で行われてました。

行ったんですよ。 あの年の冬休みに。 動くビートルズを初体験するために、弟とふたりで。 中学生と小学生の男の子ふたりが、正月に有楽町の映画館に出かけていったのです。 最初は興奮状態であったふたりも、早起きしたせいか、あるいは暗い雰囲気の映画であったためか、3本目の 「レット・イット・ビー」 では眠ってしまいました σ(^_^;)






「ヒア・カムズ・ザ・サン」 を聴くと、温かい部屋のサッシから差し込む陽の光の中で聴いた、あの日の記憶が甦ってきます。 13歳の冬休みのこと。 「赤盤」 「青盤」 のレコードは、今でも大切にしています。


今週はクリスマスウイーク
皆様にとって、良い一週間となりますように ! ビール






I wish you a Merry Christmas !

さよなら 2015 Thank you for the Music ♪

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今年ももう終わりですか ・・・ 羊の正体、実は猿ですか ・・・
最後なので面倒な能書き、うんちくはなしでいきます。

毎年、年の初めには夢というか目標を立てます。 私 これでも一応普通の勤め人なのですが、その描く夢というものが相変わらず、と言うかいい年をして現実から離れたものなのです。
以下、アホウが描くその夢 ( ゚ロ゚)

書いた小説が大ベストセラー → 夢の印税生活 → 音楽に金をつぎ込む → 作ったアルバムが大ヒット → 夢の海外生活 → (つづく)

多少のマイナー・チェンジはあってもだいたいいつもこんなんです。 地に足の着いた幸福な生活への憧れはもちろんありますが、 放蕩生活への憧れみたいなものもどこかに沁みついてしまっているんですね。 ある種の病気です。

でもたまに風邪で寝込んだ時などは真剣に考えたりはします。 頭をよぎるのは新聞の片隅に踊る文字 「腐乱死体発見、死後2週間」 とかさ。 
いやだ~! そんな死に方は!!! (ノ゚ο゚)ノ

というわけで、来年もライヴに映画に執筆に、加えて演奏活動。
いきまっせ ~ ! (我が辞書に "教訓" の文字はない (^_^)v )


来年が憎しみや怒りのない
平和な世界となることを祈って


少し早いのですが、
皆様、今年はありがとうございました。
どうか良いお年をお迎えください m(_ _ )m












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Happy New Year ! 2016

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。。。



あけまして おめでとうございます ビール 
来るは猿、去るは羊。 かわいいなぁ・・・涙ぐんでるよ (*^.^*)
今回はすでにチケットを入手して、今年行く予定となっている3人のアーチスト (+ 1) について。


浜田省吾 1月8日 国際フォーラム・ホールA
もっと喜んでいんだ~ ♪ もっと喜んでいい~んだ~ ♪
やっと当たりました (^O^)/ 東京公演のみならず、近県の公演もエントリーしたのに来るのは 「残念ながら・・・」 の連絡ばかり。 ファン・クラブ優先となってしまうのは仕方がないことだし、もうほとんど諦めていたのですが・・・

昨年12月25日、まさにクリスマスの日に 「当選しました」 のメールが。 これだってキャンセルされた分の再抽選。 よく当たったよな! 浜田省吾のコンサートは、他アーチストとのジョイントを含めると通算8回目。 手元に残されている古いチケットを見ると、最後に行った浜省ライヴは1984年2月13日の渋谷公会堂となっています。 実に31年ぶりということになります (31年ですよ!)。でも浜田省吾は今でも現役バリバリのロッカーとして新しいアルバムを制作し、ツアーまで行っています。 凄いよなぁ・・・

この日のライヴは前日7日に続いての 「ネパール被災地復興支援 & 海外人道支援プロジェト サポートの為のチャリティ・コンサート」 となっています。
もう来週じゃないか!



浜田省吾 / J. Boy
新しい曲の多いセットリストの中にあって、この曲は演奏されているようです。


DIANA KRALL 2月27日 東京芸術劇場 コンサートホール
カナダ出身のジャズ・シンガー / ピアニスト、ダイアナ・クラール。もうすでにジャズという枠をとっくに飛び越えてしまっているビッグネームなので、みなさんご存知でしょう。

実はライヴは初めてです。ですがとても思い入れのあるアーチストです。95年頃、ジャズの売り場を担当していた頃に、ビクターの輸入部門の営業が 「絶対のお薦め」 として、まだマイナー・レーベルに所属していた頃の彼女のCDを置いていったんですね。

こういった特別な人というのは、一聴すればすぐにわかるものです。 あっという間にジャズの世界ではトップに上り詰めます。現在までの活躍はめざましく、グラミー賞も受賞し、2011年にはポール・マッカートニーのアルバム 『キス・オン・ザ・ボトム』 にも参加しています。2003年にはエルヴィス・コステロと結婚していますが、しかしすごい音楽カップルです。

まさかここまでのスター・シンガーになるとは予想できませんでしたが、ジャズ好きで知られるクリント・イーストウッド主演・監督の映画 『トゥルー・クライム』 (1999) の最後の場面に 「Why should I care」 が流れて来るのを聴いたとき、「本当に大物になってしまったんだなぁ・・・」 と実感しました。



DIANA KRALL / Why Should I Care
ダイアナ・クラールに惚れ込んだイーストウッドは、クリップ映像の監督をし作曲も担当しています。


ERIC CLAPTON 4月19日 日本武道館
クラプトンのコンサートは、1987年に初めて行って以来もう30回近く行っているはず。前回の来日公演は、一昨年 2014年の日本武道館で行われたもの。力の抜けた自然体のプレイが印象に残っています。

あのときの 「レイラ」 は、アンプラグドでおなじみのアコースティック・ヴァージョンでした。 でもオリジナルのロック・ヴァージョンを演らないことに対して、不満を示すファンもいるんですね。 気持ちはわかりますが、「いい加減クラプトンを、あの "レイラ" から解放してやれよ」 というふうにも思うのですが。

僕はアンプラグドの 「レイラ」 も好きです。ブルースのフィーリングに、ブリティッシュ・フォークの風味も加わって、味わいの深さを感じます。 かつての激しい恋を回想するという意味では、こちらの 「レイラ」 のほうが今のクラプトンには自然だと思うんですけどね。

前回の来日時、ツアーからの引退を表明していたクラプトンでしたが、今回日本のファンのために 武道館5日間の公演を組んでくれました。 そして最終日のチケットを取ることが出来ました。 僕はギターを始めた10代の頃から、ずっとクラプトンのように弾きたいと思ってクラプトンの音楽を聴いてきました。 これが最後の日本公演になってしまうのか!? そしたら今度はロンドンに聴きに行きますよ。



ERIC CLAPTON / Layla
2014年2月28日、武道館でのライヴから。 まさにこの日、あの場所でこの演奏を聴きました。


僕の行ったクラプトンのライヴは、ジョージ・ハリスンとの共演となった91年の横浜アリーナ以外は、すべて武道館でのものです。 クラプトンの音楽については、張り詰めた緊張感を持ったクリーム時代の演奏も、緩さをともなった70年代の演奏も、そして格調を感じる近年のクラプトンも、それぞれに好きです。

その "格調" あるクラプトンを嫌う人間もいることは知っていますが(特にコアなブルース・ファン)、クラプトンほど歴史と伝説のホール、日本武道館が似合うアーチストはいないと思います。ロイヤル・アルバート・ホールや日本武道館が最も似合うアーチスト、それがエリック・クラプトンであると思います。

その武道館も、老朽化によって改修することが検討されているそうです。どうか解体、建て替えなんてことのないよう願いたいものです。 誰もがピカピカツルツルのものを望んでいるわけではないのですから・・・。


ADELE
アデル。 来日公演が決まったわけではありません。 と言うか、飛行機嫌いが伝えられているので無理なんですかね。 この人の歌を生で聴きたいと言う人は多いと思いますよ。

最近のアーチストを積極的に聴くということは少ないのですが、英国産の女性ヴォーカルに関しては常にチェックしています。 00年代に入ってっからはすぐれた人が多く登場しているでしょ。
ジョス・ストーンから始まり、ダッフィ、エイミー・ワインハウス・・・ 。 そしてアデルの登場。 皆それぞれに、黒人音楽であるソウル・ミュージックがバックボーンにあります。

これは今に始まったことではありませんが、イギリス人アーチストの黒人音楽に対する距離の取り方や、自らの音楽に取り入れるブレンドの仕方、センスというのが好きなのです。 温度の低いソウル・ミュージック・・・。上手くは言えないのですが。

昨年リリースされた新作 『25』 も素晴らしい出来。やっぱり熱望ですね。



ADELE / Hello




【お知らせ】
1月20日(水) FM-Hi!
「ゆうラジ! Radio魂」(16:30 - 18:30) という番組内の
"Blues on Blues" というコーナーに、私 やんが出演します。
コーナーは17時30分少し前ぐらいから、20分ぐらいでしょうか。
出演: Kacomaru。 大橋渡 やん保坂

FM-Hi! は静岡のコミュニティFM局ですが、インターネットラジオ (PC スマホ) にて全国で視聴することができます。 

http://www.fmhi.co.jp/

以上のURLから、インターネットサイマルラジオに進み、東海地区の FM-Hi を選択していただければ聴くことができます。
短い時間ながらワイワイ楽しくやってます。 都合よろしければご視聴を!



今年も、音楽について・・・映画について・・・・
より高く、より深く、そしてそれをわかりやすく、を心がけ、
記事にしていこうと思っています。

また、今年はこれまで学んだこと、得たことから
自分自身の表現(音楽、小説、エイッセイ など) としても形にしていかなければと・・・。残された時間は限られているわけですからね。

そんなわけで
みなさま、今年もおつきあいください。
よろしくお願いいたします m(_ _ )m



2016年 元旦    

やん













 

SHOGO HAMADA ON THE ROAD 2015 SPECIAL

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1月8日 (金) 東京国際フォーラムA

浜田省吾
『ネパール被災地復興支援と海外人道支援プロジェクト
サポートの為のチャリティーコンサート』


1.永遠のワルツ (Instrumental)
2.光の糸
3.旅するソングライター
4.マグノリアの小径
5.美しい一夜
6.サンシャイン・クリスマスソング
7.瓶につめたラブレター
8.花火
9.五月の絵画
10.ハッピー・バースデイソング
11.夢のつづき
12.夜はこれから
13.恋する気分
14.きっと明日
15.アジアの風 青空 祈り part-1 風
16.アジアの風 青空 祈り part-2 青空
17.アジアの風 青空 祈り part-3 祈り
18.誓い
19.光と影の季節
20.Thank you
21.I am a father
22.君の名を呼ぶ
23.ON THE ROAD
24.J.BOY
 - アンコール -
25.二人の夏
26.演奏旅行
27.永遠のワルツ
28.青空のゆくえ






行って来ました! 個人的には1984年以来31年ぶりとなる 浜田省吾・ライヴでした。 今回は曲ごとのレポみたいなことはやめて、ざっくりとした感想という形にしたいと思います。

開演時間である ほぼ18:30頃にスタート。 途中15分ほどの休憩をはさんでの2部構成となるコンサートでした。 2時間半ほどの長丁場とはなりましたが、内容的には聴衆をまったく飽きさせることのない、見事に構成されたライヴであったと思います。 チャリティ・コンサートとなってはいますが、途中MCでチャリティの主旨について語る部分以外は、ここまでツアーで行われてきた構成と変わらないライヴであったようです。

前半は 昨年リリースされた最新作 『旅するソングライター』 を、映像とともに再現した内容。 現役の表現者であることを強く印象付けるものです。 バンド構成は ドラム、ベース、ギター×2、ピアノ、キーボード、管楽器×3、女性コーラス×2 に浜田省吾を含めた12人。 個人的には女性コーラス2人が、バンドのサウンドにほど良くカラフルさを加えた印象があります。

バンド全体のサウンドをプロデュースしているのが、浜田省吾にはなくてはならない存在、広島時代からの仲間であるギターの町支寛二さん。初期の頃から浜田のアルバムのコーラス・アレンジを手掛けていますが、浜田省吾のバンドって昔からコーラス・ワークが見事なんですね。これはやっぱり町支さんの力も大きいと思います。



浜田省吾 / 光と影の季節
"ウォゥ オゥオゥウォーッ" の浜田節はやはり大合唱となりました (^ε^)♪


日本にある凡百のロック・バンドと違うのは、美しさを感じるコーラス・ワークをも備えているという点でしょうか。 ボブ・ディランやブルース・スプリングスティーンといった硬質なな音楽に傾倒しながらも、ビーチ・ボーイズのコーラス・ワークにも影響されて育ったのが浜田省吾というアーチスト。 そう言えば、開演前の会場にはビーチボーイズのアルバム 『ペットサウンズ』 が流れていました。

そしてそのコーラスワークの素晴らしさが際立っていたのが、アンコール1曲目に歌われた 「二人の夏」。 曲を作った20歳の時、町支は 「ぶち、ええのう」{広島弁) と感想を言ったのだそうです。「その言葉がなかったら 今の浜田省吾はなかった」なんて、冗談半分にMCで言っていたのが印象に残っています。 ただしまったく売れなかったそうですが。 この曲のコーラスワークをステージで再現するのって難しいと思うのですが、見事なハーモニーとなっていました。この曲をライヴで聴けるとは!

思い入れという点ではどうしても70年代、80年代の曲になってしまいます。 初めて浜省・ライヴに行った81年のセットリストにもあった「演奏旅行」 や、80年代を代表する 「J. Boy」 など。

そして涙腺が完全決壊となったのが "この道の彼方、約束されたはずの場所があると信じていきたい" と歌う「ON THE ROAD」 です。 バックの映像に映し出されたのは、雨の中、雷の中、走り続ける浜田のシルエット。 曲中、最初から最後までその映像だったのですが、この時ばかりは 「省吾、あれから30年以上ずっと走り続けてきたんだよな」 と、言葉には表せない深い所からの感情が湧き上がってくるのを覚えました。 表現者ってどうしたって孤独なのですが、それとまっすぐに向き合ってきた誠実さもまた感じたのです。



浜田省吾がライヴで 「僕は正々堂々と生きていく」 と語ったのを聞いてから30数年。 この日、ステージに見たのは、少年の純粋さと大人の寛容を持ち合わせたアーチストの姿でした。








007 やんより愛をこめて

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ユニオンジャック
昨年公開となった"007"シリーズ最新作 『007 スペクター』 は、24作目だそうです。 みなさん何本ぐらい観ていますか? シリーズに興味がない方でも、たぶん数本は観ているのではないでしょうか。 テレビ放映時、あるいは何気なくレンタルで借りて観たとか。

僕自身はおそらく8割ぐらいかなと思います。でもストーリーについてはごちゃ混ぜになってしまい、正確には語れません。最近は 『ミッション・インポッシブル』 のストーリーまでがそこに加わり、混乱に拍車がかかっています σ(^_^;)

"007"シリーズについて記事にしようと思い立ったのは良いのですが、ある程度テーマを絞らないと、収拾がつかなくなってしまうというのもあります。一番好きなボンドガールは? かっこいいと思うボンドカーは? 最新の秘密兵器のこととか。 とどめは最も好きなジェームス・ボンドは?

というわけで、今回はシリーズの主題歌を中心にして深入りはせずに。



THE JAMES BOND THEME (original)


誰もが知っている 「ジェームス・ボンド」 のテーマ。 作曲はモンティ・ノーマンという方で、編曲はジョン・バリー。 ジョン・バリーというのは、映画音楽の世界では有名な方でアカデミー賞常連の大御所みたいなひと。 "007 シリーズ" の半分ぐらいで音楽を担当しているようです。 現在はあたり前のように聴いていますが、サスペンス感にあふれた曲調は、おそらく当時としてはかなり斬新だったのではないでしょうかね。


"007" シリーズ というのは、イギリスの作家イアン・フレミングのスパイ小説を映画化したもの。 フレミングの死後は別の作者による著書も多くあります。 そしてジェームス・ボンドというのはその主人公で、秘密情報部(MI6)で国家の利益のために働く秘密工作官です。官とはつまり公務員のことです。

ジェームス・ボンドと言えば、まずは言わずと知れたショーン・コネりーでしょ。ワイルドでタフでクールでスマート。着こなしも身のこなしもバッチリで女性にもやさしい。 後のボンドたちはこの基本形に、変化を加え新たな個性を加えでボンドを継承していくわけですが、コネリーが演じたボンドは絶大な人気があったため、皆それぞれにプレッシャーがあったのではないかと想像できます。

コネリー時代の主題歌では、シャーリー・バッシーの "ゴールドフィンガ~ ♪" がよく知られるところですかね。歌声が力強いので、コネリーのボンドにはピッタリかとは思います。でもそれではあたり前すぎてつまらないので・・・。

最初に観た 007映画は、おそらく高校生の頃。 テレビで放映されたシリーズ第5作 『007は二度死ぬ』 (1967) は、日本が舞台になっていることもあり印象が強いのです。ボンドガールは浜美枝に若林映子。どちらも魅力的です。でも外国映画によくある、ヘンテコな日本の描きかたもあります。今はそれも楽しんで観れるのですが。
主題歌はフランク・シナトラの娘さんであるナン シー・シナトラが歌っています。



NANCY SINATRA / You Only Live Twice (1967)



シリーズ第8作目となった『死ぬのは奴らだ』 (1973) には、3代目ボンド、ロジャー・ムーアが登場。 スマートな英国紳士風ではありますがコメディにも通じている俳優のようで、出演の作品にはコミカルな要素もあります。 『死ぬのは奴らだ』 にもプッと吹き出すような場面がありますが、この作品はシリーズの中でもかなり面白くて、個人的にはとても好きです。ボートを使ってのチェイスが圧巻だし、ボンドガールのジェーン・シーモアという長い髪の美しい清純な女優さんはとても好みです ❤

ポール・マッカートニーが担当した曲 「死ぬのは奴らだ」 は、007の主題歌としては異色とも言えますが、素晴らしい楽曲だと思うのは、ポール・ファンであるからという理由だけではないですよ。

楽曲には、メロディ・メーカー・ポール・マッカートニーの持つポップでキャッチーなメロディに加えて、スパイ映画らしいサスペンス感もあります。正式な音楽教育を受けたことのないミュージシャンでありながらも、こういった構成の楽曲を作れてしまうのはやはり才能の成せる技ということなのでしょうか。 因みに劇中のスコアはジョージ・マーチンが担当。 師弟の揃い踏みとなりました。



PAUL McCARTNEY & WINGS / Live And Let Die (1973)


ショーン・コネリー、ジョージ・レーゼンビー、ロジャー・ムーア、ティモシー・ダルトン、ピアーズ・ブロスナン、ダニエル・クレイグ。それぞれのボンドに魅力があると思います。初代のボンド、ショーン・コネリーは特別なものとして置いておいて、次に好きなボンドとなると誰でしょうか。

5代目ボンド、ピアーズ・ブロスナンを挙げるひとは多いのではないでしょうか。ハードなアクションシーンが多いものの、女性にやさしいソフトなムードもあり。そのやさしさからやや線の細さを感じなくもないのですが、それも魅力かなと。僕はこの人のボンドから、再び "007" を注目して観るようになりました。もっとこのひとのボンドを見たかったです。

ブロスナン時代の主題歌は、ティナ・ターナー、マドンナ、シェリル・クロウといった錚々たるメンツが担当。 でも最も好きな主題歌は、ガービッジというあまり有名ではないグループによる 「ワールド・ノット・イナフ」 ですね。女性ヴォーカルの歌に魅力を感じるし、楽曲もメロディアス。 アルバムもちょっと聴いてほしいところです。



GARBAGE / The World Is Not Enough (1999)



ダニエル・クレイグ。 このひとのボンドが登場した時には否定的な意見もあったんですね。 正直 僕も思いました。 「ボンドにしてはちょっと悪役顔だし、ユーモアにも欠けるんじゃないの」 と。 でもそれは従来のボンドと比較してのことだし、リアルさを感じる新しいボンド像としては、作品ごとに定着していった感があります。

現在では 「クレイグのボンドこそ最高!」 と言う人もいますよね。 確かに前作 『スカイフォール』 (2012) はシリーズ中でもとりわけ評判の良いものであったし、新作の 『スペクター』 (2015) には娯楽性も多く加わって素晴らしい出来となっています。 クレイグのボンドはこれで最後という話もありますがどうなるのでしょうか。 続いていけばこれからさらに良くなる気がするのですが。

愁いを含んだアデルの 「スカイフォール」 は、影のあるクレイグのボンドにとても似合っているように思います。



ADELE / Skyfall (2012)



以下は、2012年に 007シリーズが50周年を迎えたさいに、アメリカの音楽誌ビルボードが発表した007主題歌のTOP10です。 007の主題歌は、世界中でのヒットが約束されたようなものなので、誰もが歌いたがるそうです。

1. デュラン・デュラン / 美しき獲物たち (1985)
2. カーリー・サイモン / 私を愛したスパイ (1977)
3. ポール・マッカートニー&ウイングス / 死ぬのは奴らだ (1973)
4. シーナ・イーストン / ユア・アイズ・オンリー (1981)
5. シャーリー・バッシー / ゴールドフィンガー (1964)
6. マドンナ / ダイ・アナザー・デイ (2002)
7. トム・ジョーンズ / サンダーボール (1965)
8. リタ・クーリッジ / オール・タイム・ハイ (1983)
9. ナンシー・シナトラ / 007は二度死ぬ (1967)
10. シャーリー・バッシー / ダイアモンドは永遠に (1971)



映画
007 を記事にしておきながら、ボンドガールについて語らないのは片手落ちであることはよくわかっています。 それを記事にすると長くなるので、また機会をあらためてということで。 ところで新作 『スペクター』 のボンドガールが、映画 『アデル ブルーは熱い色』 に主演していたフランスの女優レア・セドゥであるのに気づきびっくり! 映画で見たのはあの作品以来。 あまりにもいい女に変身していたので、女ってコワイなと。 もとい、女優ってすごいな!と (^_^;)






ルーフトップ・コンサート 総集編

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曇天・寒空のこの季節になると思い出すことのひとつが、1969年1月30日に行われたビートルズ最後のライヴ演奏となったルーフトップ・コンサートです。 一般的には、ロンドン・アップル社の屋上で行われたこのゲリラ的なライヴ演奏の事を指して、ルーフトップ・コンサートと言います。

ですがそれ以前にもそれ以後にも、屋上 (ルーフトップ) で行われたライヴ演奏もあるわけで、今回は有名なものだけピップアップして総集編としてまとめてみました。

実は長年ビートルズが最初であると根拠なく信じていました。考えてみれば、ジャンルは何であれ屋上に楽器と機材を持ち込み演奏すればそれはルーフトップ・コンサートになるわけで、世間に知られていないそういったライヴがビートルズ以前からあったとしても何ら不思議はないわけです。



JEFFERSON AIRPLANE / House At Pooneil Corners (1968)
ロック・バンドによる初めてのルーフトップ・コンサートは、1968年12月7日にアメリカのバンド、ジェファーソン・エアプレーンがニューヨーク・マンハッタンのビル屋上にて行ったライヴ演奏と言われています。 そのようにロック・ファンの間で広く認知されるようになったのは、近年のことだと思いますが。

昨年亡くなられた音楽評論家・中山康樹さんの著書 『誰も知らなかったビートルズとストーンズ』 によると、ジャン・リュック・ゴダールが映画 『ONE AMERICAN MOVIE』 のためにジェファーソン・エアプレーンにライヴ演奏をさせ撮影したものだそうです。そして当時映画は完成せず結局オクラ入りに。

この映像、見れば見るほどビートルズの映画 『レット・イット・ビー』の屋上演奏シーンに似た感触を覚えます。 中山氏によれば、『レット・イット・ビー』 の監督、マイケル・リンゼイ・ホッグが、業界関係者としてこのフィルムを見て、ビートルズの映画に流用したのではないかとその著書に記しています。







U2 / Where The Streets Have No Name (1987)
,ロックをやる者ならば、一度はやってみたいと思うであろう屋上ライヴ。 あまり高いビルではありませんがU2もやっています。

U2の最高傑作にして、80年代を代表するロック・アルバムのひとつである 『JOSHUA TREE』 に収録された曲です。 ジ・エッジのギター・サウンドって、登場したときには衝撃的だったんですね。 ディレイを駆使した独特のプレイには、僕も少なからずのショックを受けました。

ジ・エッジのギター・サウンドは、この時代のU2・サウンドの代名詞とも言えるものですが、このサウンドは野外演奏との相性が良いように思えます。 場所はカリフォルニアのリカー・ショップの屋上だそうです。







RED HOT CHILI PEPPERS / The Adventure Of Rain Dance Maggie (2011)
レッチリ。 2011年リリースのアルバム 『I'M WITH YOU』 に収録された曲です。 場所はカリフォルニア・ヴェニスビーチ、2011年7月30日となっています。

この映像を見るたび思い出すのが、子供の頃に友達と屋根だとかの高い所に登って「危ないから降りなさい!」 と大人に怒られたことですかねぇ (^o^;) それにしても危なっかしいなぁ。狭いスペースでしかも柵のない場所。 それで激しく体を揺らしながら演奏しているわけですからね。 バランスを崩して転落、なんて考えてしまいます。 でも本人たちは気持ちが良さそうです。







KEIRA KNIGHTLY / Tell Me If You Wanna Go Home (2014)
これは番外編です。 "ルーフトップ" と言っても、劇映画の中の一場面として作られたものです。 主役を演じたキーラ・ナイトレイもマーク・ラファロもミュージシャンではないのです (歌っているのはもちろんキーラ・ナイトレイ本人ですが)。

物語自体が、ニューヨークの街中でゲリラ・レコーディングを行うという設定。 路地裏であったり公園であったり・・・。 地下鉄構内の演奏では、警官に追い回されたりも。 そしてハイライトは屋上での演奏シーン。

演奏される 「Tell Me If You Wanna Go Home」 は、劇中でも最も素晴らしい曲。 この映画 『はじまりのうた』 はとても好きで、昨年記事にもしました。 とりわけ "ルーフトップ" のシーンは、音楽の楽しさが伝わってくる素晴らしい場面であると思います。







THE BEATLES / Don't Let Me Down (1969)
1970年公開の映画 『レット・イット・ビー』 のクライマックスとして撮影されたのが 有名な "ルーフトップ・コンサート" です。 所有するブートレッグ映像をたまに引っ張り出して見るのですが、あの屋上の演奏シーンには今でも痺れます。 とりわけジョン・レノンのカッコ良さといったら・・・。

途中、通報によって警官がビルに入り演奏を阻止しようとする場面も、また印象に残るものです。 これも前述の中山氏によれば、やらせではないかと。 確かに指摘される通り、不自然に感じる場面が多々あります。 ビルに入る警官を背後から撮影し、待っていたかのように警官が入る瞬間をビル内部から撮影した場面、とかね。

そして屋上での警官とスタッフとのやりとり。体制側(警官)と反体制(ビートルズ) との悶着は、映画のクライマックスとしては最高のものに思えますがそれはやらせであったのか。 中山氏は、警官が役者である可能性にまで言及しています。

他にもいくつかの疑問点を指摘していますが、これはあくまで推測なんですね。 これから "真実" が明らかになる日が来たとしても、あの時の屋上でのパファーマンスの価値にはいっさいの影響を与えるものではない、と長年のビートルズ・ファンとしてここに記しておかなければなりません。 ビートルズのライヴ・パフォーマンスは、ロック・バンドとして最高のものであったと。








昨年 『はじまりのうた』 を観たときにひとつ思ったことがあります。 屋上で演奏すること自体が、今やアーチストにとってはひとつのファンタジーなのではないかと。 大都会の空の下、街を見渡せる景色の中で演奏することが。 しかも 『はじまりのうた』 では夜のニューヨークが選ばれています。

窓から顔を出し 「警察を呼ぶぞ!」 と叫ぶ住人もいますが、それすらが素敵に見えます。 元ミュージシャンである監督のジョン・カーニーは、当然 『レット・イット・ビー』 を観ているでしょう。そして映画で描かれたのは、ジョン・カーニーにとっての "ルーフトップ" と言う名の桃源郷なのではないでしょうか。

"ジェファーソン・エアプレーン" の流用であるとか、警官はやらせであるとか、それは "真実" なのかもしれません。 でもね、当時不仲であったと言うジョンとポールが、"ルーフトップ" では笑顔で顔を見合わせたりもします。 そんな場面を見ると その "真実" というのも気にならなくなるのです。

これからも忘れた頃に屋上ライヴのPVは作られ、それはずっと続いていくことでしょう。







ワンダフル・ライフ

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ブラック
BLACK
『 ワンダフル・ライフ / Wonderful Life 』



逃げたり隠れたりする必要はない
素敵な素敵な人生
笑う必要も泣く必要もない
素敵な素敵な人生なのだから ・・・

No need to run and hide
It's a wonderful waoderful life
No need to laugh and cry
It's a woderful wodeful life



"ブラック氏(英歌手) 26日、アイルランド南部コークの病院にて死去、53歳"
ネットで時事通信による小さな記事を見つけたのは27日のこと。 ずっと名前を聞かなかったのですが、ヒット曲 「ワンダフル・ライフ」 は、日本ではウイスキーのCMに使われた事もあったし、たまに耳にしていました。

ブラック、本名コリン・バンクムはリバプール出身。ブラックの歌手名で1987年に全英最高8位となる 「ワンダフル・ライフ」 をヒットさせたことで知られています。リバプールと言えばもちろんビートルズですが、同時代の出身者としては、エコー & ザ・バニーメン、ジュリアン・コープ、フランキー・ゴーズ・トゥー・ハリウッド、クリスチャンズなどがいます。 80年代も、リヴァプールは多くのすぐれたアーチストを輩出しているんですね。

部屋にあるCD/レコードの山をあたると、87年のアルバム『WONDERFUL LIFE』、やはりありました。 大ヒット曲 「ワンダフル・ライフ」 はよく聴いていました。 「ワンダフル・ライフ」 と歌いながらも、陰りのある曲調は印象深いものですからね。


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曲は、妻との結婚生活が失敗に終わった失意の時に作られたとのこと。 歌詞には 「友達がほしい。孤独から救ってくれる友達が」 なんていう一節もあります。 この "Wonderful" という言葉は、「素晴らしき」 と訳すべきなのか、「不思議な」 と訳すべきなのか迷う所ですが、くり返す "Wonderful" にはおそらく両方の意味があるのではないかと思っています。 人生は素敵なものなのにままならないもの、という。 "Wonderful" には人生への皮肉とともに、虚無感、達観のようなものを感じます。

今年に入ってデヴィッド・ボウイ、グレン・フライ といった大物アーチストが亡くなり、メディアでは多くの時間を割いてとり上げています。 有名人というのは、幸か不幸かその死にざままで報道されてしまうんですね。デヴィッド・ボウイのようにアーチストとしても大成し、家族に看取られての幸福な死を迎えることが出来た人もいます。

日本で名前を聞かなくなってからもブラックは地道に音楽活動を続けていたようですが、彼の死は交通事故によるものだったとのこと。 けっして有名ではない、ブラックの死を伝える記事を見つけることが出来たのは幸いでした。 そうでなければ、ブラックの名前は記憶の彼方に埋没していた可能性もあったので。


交通事故にあったのは年明けのことであったそうです。 意識不明になってから亡くなる26日まで、彼の魂はどこを彷徨っていたのだろう。
死去に際し発表された声明は 「ワンダフル・ライフ」 の歌詞の一節で締めくくられていたそうです。

笑う必要も泣く必要もない
素晴らしい人生なのだから ・・・











Colin Vearncombe
May.26 1963 - Jan.26 2016

ライヴ・アット・ザ・FM-Hi!

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今回は先月20日に静岡のコミュニティFM局 FM-Hi! にて放送された演奏について記事にしてみました。 いつもの音楽記事と違い、わたくし やん個人の音楽活動の記録です。 ご了承ください。

自分の演奏について解説するなどと言うのは、あまり趣味の良いことのようには思えないのですが、ラジオ局のスタジオでの演奏というのは初めての経験であり、それを記録として残したいという思いもあって記事にした次第です。 コミュニティFMと言っても、サイマルラジオというインターネットラジオにて全国で聴けたので、「聴きましたよ」 という直接のメッセも頂きました。ありがとうございました m(_ _ )m。

FM-Hi! の番組内に「 Blues On Blues 」 という、ブルース及びブルース・ロックを中心にした選曲のコーナーがあるのですが、そのコーナーを担当しているのが、大学時代からの友人である大橋渡という男です。 そのコーナーは彼の担当で8年も続いています。 今回はその大橋担当のコーナーにゲスト出演し、音楽について語り、バカ話しもし、そして彼のオリジナル曲を一緒に演奏し、ということになったのです。


大橋 渡という男について
まぁ ずいぶんと大風呂敷な名前の男ですが本名です。彼とは大学時代に同じ音楽サークルに所属し、そこで知り合ったのです。 彼はフォーク畑、僕はロック畑の人間ながら、ウマが合うところもあって、サークル内でバンドを組んだこともあったんですね。

今よりも世の中がおおらかであったためか、彼とは音楽以外での遊びの部分でもいろいろとありました。わかり易く言えば、「狂乱の飲酒ライフ」 ってやつです。 国分寺~吉祥寺 界隈に出没。 犠牲になった後輩たちは、今も俺らを恨んでいることでしょう。 彼には酒にまつわる名曲が多いのですが、その時代の活躍(!?)がベースになっています。

そして今回一緒に演奏した 「バーボン」 という曲も、そんな飲酒ライフから生まれた曲といってもよいものです。 舞台は国分寺のパブで、歌詞に出てくる坂道とかも国分寺です (国分寺は坂が多い)。 そんなわけで、国分寺の大学に通っていた俺らにとっての思い出の曲とも言えるものです。

大橋は現在地元静岡と東京とを行ったり来たりしながら活動しているシンガー・ソングライターですが、トークも達人級でラジオ以外にも地元のイベントやら結婚式やらの司会に呼ばれることも多いようです。

何しろしゃべりが面白くて、テレビ東京のお笑いバラエティのオーディションにもレギュラーとして合格したことがあるほどです。 いよいよ出演となった頃、「俺はやっぱりシリアスなシンガー・ソングライターとして生きていく」 と言って出演をキャンセル。もしあそこで出演を決断していたなら、たけし~さんま~タモリ によって書かれた当時のお笑い勢力図は間違いなく違ったものになっていた、とここに断言しておきます p(^-^)q

↓「Blues On Blues」 は、毎月第3水曜日 17:30~ FM-Hi! にて放送中。以下URLよりサイマルラジオに進めます・
http://www.fmhi.co.jp/
↓ 江古田マーキー・スケジュール (大橋出演)
江古田マーキー オフイシャルウェブサイト





ライヴ・アット・ザ・FM-Hi!
コーナーの締めくくりとして、「バーボン」 を2人で演奏しました (アコギ×1、エレキ×1)。 時間的な制約からほぼ一発録りです。客の顔の見えるライヴハウス、やり直しのきくレコーディングとも違う状況は、これまでの経験とは勝手の違うものでした。 僕のような即興演奏が生命線のギター弾きにとっては、真価が問われてしまう怖い状況でした。
( ̄□ ̄;)!!

番組のディレクターである遠藤さんという方も音楽をやられている方であったため、短時間でこちらの意向をくみ取り、バランスを整えて音を作ってくれたんですね。 さすが!といったところです。 それからDJの Kacomaru。 さんという女性も、リラックスできる状況を作ってくれて、その点にも感謝です。

地元密着の地域FMはスタッフが家族的な雰囲気で、とても心地よい時間を過ごさせてもらいました m(u_u)m





バーボン
個人的な思い入れを除いたとしてもいい曲だと思います。 彼にとっても大切な曲のようで、以前には自主制作でレコーディングしたこともあります。 フォーク調の曲ではありますが、僕にとってはブルースを感じさせる曲です。 音楽的な形式としてはブルースではないのですが、精神的な意味合いにおいてです。

大橋も近年は黒人音楽であるブルースに傾倒しているのですが、もともと資質としてブルース的なものを持っている人なので、今後の曲作りにも期待したいところです。 僕もブルースと言う音楽が、自分の音楽性の中の柱のひとつなのですが、今回は 「バーボン」 の持つブルースの側面をさらに引き出すべく、少しアレンジを施してみました。 上手くいったかな?

しかしラジオ局のスタジオという特殊な状況による高揚感からか、ギター・ソロの音数がやや過剰となってしまったのが反省点でしょうか。 テレキャスターの音自体は、最近ほど良く枯れてきていい感じで泣いてくれています。 大橋のアコギもかなり弾きこんでいるだけあって、切れのあるいい音になっていますね。 途中ハモリを加えたのは、ダークに過ぎる曲調となる可能性もあったので、すこしだけポップ側に引き寄せたいという狙いからのものです。



バーボン / 大橋 渡 with ヤン・ホサカ
作詞・作曲 / 大橋 渡  ラジオで放送された音源です。
どこかのウィスキーのCMで使ってくれないですかねぇ・・・



これからについて
都内近県、あちこちのライヴハウスで行われているブルースセッションに、最近またぼちぼちと出かけて演奏しています。 原点に返りたいという思いからです。 20代30代の若いプレイヤーは、ギターに限らず皆ほんとに上手いんですよね。

勢いで弾いてくる若い奴には圧倒されてしまうこともありますが、味のあるプレイというのは同世代、あるいは自分より年長の方によるプレイが多いように感じています。そのあたりブルースという音楽の特性からなのかも知れませんが。 年を重ねれば誰でも心の底に澱が蓄積されていきます。 ただ、ブルースに限らず音楽というのは、そのよどみ 臭みさえ個性に転化させることも可能な表現形態だと思うのです。

現在はサポートとセッションによって活動を続けています。ほんとはバンドでやりたいのですが、それを組織して動かすとなるとまた別のエネルギーも必要となってきて、まだ準備が必要です。 今は作っている新曲がたまった頃、またどこかでアコギ1本 または鍵盤1台によるソロ・ライヴでもやろうかと考えています。 自分をアーチストと名乗るからには、ピンでもやれなきゃダメなんよ。

「昔やっていたのだけれどもう一度ひと前でやりたい。でもみんなやめてしまって、今はもう仲間もいないんだよ」 なんて方がいたら一緒にやりたいですね。 「再生」 をサポートしますよ! 労働と共にある音楽を尊いとも考えています。 ただ ・・・ 行く道は、けもの道になるかもしれませんがね (^ε^)♪







ラヴ・ソング #3 ..... チョコレートに音楽を添えて

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本日は2月14日、バレンタイン・デイ。
安易な企画であることは重々承知しています。 ラヴ・ソングをいくつか集めてみました。

それにしても "チョコレートに音楽を添えて" だって・・・。 よくもまぁ そんなキザなセリフを。 どの顔が言ってるんだ? って、前回の記事の丸サングラスの男が言ってます (^_^)v

あのですね。 この季節になると、CDショップに勤めていた時代を思い出すのです。 で、やっぱりバレンタイン企画というのがあって、ラヴ・ソングを集めたコンピレーションCDなどを集めて、陳列したりするわけです。 そしてポップを作って、気恥ずかしいコピーを考えたりするわけですが、先のコピーはその王道とも言えるものですね。 まぁ 楽しかったけどさ (浜省風)。


BOZ SCAGGS / Near You (1971) 恋の矢

きみのそばにいつもいたい
きみの話すことをひとつ残らず聞いていたい
きみのそばにいる限り
失うものは何ひとつない


1971年発表、ボズ・スキャッグス通算3枚目のアルバム 『MOMENTS』 に収録された曲です。 「きみのそば」 という邦題がついています。

ボズといえば、76年のアルバム 『シルク・ディグリーズ』 の大ヒットによって、スーパー・スターの座へと駆け上がった人として知られています。 当時ブームともなった、AORというジャンルを代表するアーチストのひとりです。

AORというのは、"ジャズやソウルなどの音楽を都会的なセンスで巧みに取り入れたロック" というのがひとつの定義付けでしょうか。ボズ・スキャッグスは、もともとブルースやソウルなどのルーツ・ミュージックを指向していたアーチストで、初期の頃には、アラバマ州のマッスル・ショールズで、南部臭さの漂うアルバムも作っています。

しかし、考えるところもあったのでしょうね。管楽器やピアノを洗練されたアレンジで用いる、都会的な音楽へと変化していきます。 アルバム『MOMENTS』 は、後の作品に続いて行くメロウなサウンドの先駆けとも言える作品です。

実は、ボズの曲の中で 「きみのそば」 は最も好きな曲です。切ないメロディと、管楽器、ピアノ、ハモンド・オルガンとどれをとっても完璧に配置されています。 当時 「バックコーラスの女王」 と異名をとっていたリタ・クーリッジの哀愁漂うコーラスも絶品。胸がキュンとなる必殺のラヴソングですよ!






SUZANNE VEGA / Gypsy (1987) ラブラブ

私たち、未知のふたりは
運命づけられたかのように
今 こうして出会い知り合う
眠らない赤ん坊のように
私を抱きしめてほしい


スザンヌ・ヴェガ、1987年発表のセカンド・アルバム 『SOLITUDE STANDING (邦題;孤独)』 に収録された曲です。

スザンヌ・ヴェガはニューヨークで育ったシンガー・ソングライターです。 音楽活動を始めた頃は古典的なフォーク・ソングを書いて歌っていたそうなので、「ジプシー」 は彼女の初期のスタイルによる楽曲なのでしょう。

『SOLITUDE STANDING』 というアルバムの中でも、ホッとするような雰囲気を持った曲です。彼女がサマーキャンプの先生をしていた時代に、イギリスから来ていた同年代の美術の先生を好きになってしまった、というのが歌の題材です。

そしてサマーキャンプも終了と言うときに、彼女はこの曲を作り彼に贈ったとのこと。お返しに彼からもらったバンダナを、彼女はその後も大切にしたそうです。 若き日の恋って、いつの時代もピュアなものなんですね (*v.v)。
それにしても、スザンヌ・ヴァガが有名になった時に、録音されたこの曲を聴いてその彼氏はどのように思ったでしょうか。






ARETHA FRANKLIN / I Say A Litttle Prayer (1968) ドキドキ

朝起きたその時から
化粧もまだしていないのに
あなたへの小さな願いを送る
髪をとかし
何を着ようか考えている時も
あなたへの小さな願いを送る
・・・・
この小さな願いを聞いてほしい
私を好きだと言ってほしい ・・・


「小さな願い」 という邦題のついた、バート・バカラック / ハル・デヴィッドによって作られたこの曲は、数あるバカラックによる名曲のひとつです。アレサ以外の歌唱によるものもありますが、 "レディ・ソウル" アレサ・フランクリン歌唱によるこの曲がやはり一番でしょ。

20代の頃。アレサ・フランクリンの歌を初めて聴いたとき、他の歌手とは違う別物であるというのは、すぐに感じたことです。 この曲もその頃に聴いた曲のひとつです。10代の頃から、教会でゴスペルを歌っていたというアレサですが、特別なのはそれだけではないでしょう。

ゴスペル・フィーリングに加えてアーシーで深みのある特別な雰囲気を持った声。 「小さな願い」 は、朝起きて化粧しながら、髪をとかしながら、コーヒーを飲みながら、好きな男のことを想う曲で、 世界中どこにでもある朝のOLさんの風景とも言えます。 でもアレサが歌うと、ちょっと意味深にも聞こえてしまうのは、やはりその声によるものが大きいように思うのです。













ニーチェの言葉

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ニーチェと言うのは19世紀ドイツの哲学者 (1844-1900) です。 哲学者と聞いて、ここで読むのをやめようと思った人も、もう少しだけお付き合いを。

最近本屋で見つけて購入した、文庫化された 『超訳 ニーチェの言葉 (白鳥 春彦 訳) 』 の帯を見てびっくり! "119万部突破 ベストセラー"。 超訳というわかりやすい文章に訳されたものながら、哲学者の言葉を集めてまとめた本がそんなに売れているのか! と。
そういうわけで今回は、その本からニーチェの言葉をいくつか抜粋して・・・。

昨年亡くなられた作家の野坂昭如氏出演のテレビCMに 「♪ ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか、ニ、ニ、ニーチェかサルトルか。 みんな悩んで大きくなった」 という歌が昔あったんですね。 10代の頃、野坂氏のこの歌を聴いて 「そうか、野坂さんの世代の大人たちは、ニーチェだ! いやサルトルだ! と議論をしながら大人になっていったんだな」 と、当時は思ったのです。

で、ニーチェという人は、60年代後半の学生運動が最も盛んであった時代から、日本人には好まれていたようです。 その人気は現在も続いているわけですが、どうしてなのでしょうか。 難解ではない、と言うのもひとつあると思います。それから文章に情熱があって、メッセージのようにして読み手の心に響いてくる、というのもあります。 そのあたりで、当時の大学生たちにも人気があったのかも。 単純な自己肯定と言えなくもないけれど、僕はそういった所が好きです。


この人生を簡単に、そして安易に過ごしていきたいというのか。
だったら、常に群れてやまない人々の中に混じるがいい。
そして、いつも群集と一緒につるんで、ついには自分というものを忘れ去って生きていくがいい。

『力への意志』

この言葉の裏側には、一匹狼と言う言葉がありますよね。 ある種の人間にとってはとても魅力的に響く言葉です。 ニーチェと言う人は、徹底して流行に背を向ける孤高の人であったそうです。当時のキリスト教道徳をあの世的だと批判し、ゆえに当時の思想界から締め出され、友たちからもやがて離れて人生を送った人。

でも人間というのは社会的な動物なので、ひとりで生きていくことなどできないわけで。 集団の中にあって自分というものを知り、磨かれ成長していくとういのも大切なわけです。ただ現代のネットでつながった社会、いつでもどこでも誰かと繋がっていないと不安になってしまう社会というのは異常な気がします。

そしてこんな言葉もあるんですね。

一緒に黙っていることは素敵だ。
もっと素敵なのは、一緒に笑っていることだ。
二人以上で、一緒にいて、同じ体験をし、共に感動し、泣き笑いしながら同じ時間を共に生きていくのは、とても素晴らしいことだ。

『人間的な、あまりに人間的な』

とても好きな言葉です。映画館で映画を観たり、コンサートを皆で楽しんだり、感情を同じ時間に同じ場所で共有するのって、素敵なことですよね。ニーチェという人に親近感を持ちませんか? 孤独を好む偏屈な学者といったイメージではないですよね。 ニーチェは優しく思いやりのある人であったそうです。





自分自身と友人に対しては、いつも誠実であれ。
敵に対しては勇気を持て。
敗者に対しては、寛容さを持て。
その他あらゆる場合については、常に礼儀を保て。

『曙光』

学校でも職場でも、集団の中で活動するとなれば、人にに対してどのように接して行くかというのは誰もが悩むところでしょう。 「口は災いの元」 と言いますが、たった一言の言葉によって関係を壊してしまったり、あるいは普通の言葉であっても、状況によっては相手を不快にさせたりとか。 そういったことにエネルギーを費やさなければ、うまくことが運ばないというのもあるし、面倒ですよね。

本屋に行けば、処世術について書かれた本が山ほどあって、いったいどのやり方でいったらいいのか、そこでまた悩む。 人とのトラブルは大きなストレスを抱え込むことになり、本当に嫌ですよね。 僕も昔から何かとトラブルを呼び込んでしまう人間なのですが、最近はニーチェが残してくれたこの言葉だけは忘れずに、常に堂々としていることを心がけています。 なかなか上手くはいかないのですが。


他人から見れば、どうしてあんな人を愛しているのだろうと思う。 あんな人は格別にすぐれているわけでもないし、見ばえもよくないし、性格も別に良くないのに、と思うのだ。
しかし、愛する人の眼は、まったく異なる点に焦点をあてている。 愛は、他の人にはまったく見えていない、その人の美しく気高いものを見出し、見続けているのだ。

『善悪の彼岸』

中島みゆきの曲に 「ふたりは」 という曲があります。 街中の人たちに、「遊び女」「売女」と蔑まれた女と、「ごろつき」「野良犬の血筋」と言われ嫌われ者であった男が、傷つき凍えた中で出会いふたりで街を出ていく物語。なんとなく思い出してしまいます。 ふたりにしか見えないものってあるんですよね。

この言葉によってニーチェと言う人に強く魅かれてしまいました。これは僕自身の美学なのかもしれませんが、多くのひとに祝福された愛よりも、群れを離れて2人だけで旅立つ愛のほうに、涙してしまうのです。


理想を捨てるな。自分の魂の中にいる英雄を捨てるな。
誰でも高みを目指している。 理想や夢を持っている。 それが過去のことだったと、青春の頃だったとなつかしむようになってはいけない。 今でも自分を高くすることをあきらめてはいけない。
いつのまにか理想や夢を捨ててしまったりすると、理想や夢を口にする他人や若者を嘲笑する心根を持つようになってしまう。 心がそねみや嫉妬だけに染まり、濁ってしまう。 向上する力や克己心もまた、一緒に捨て去られてしまう。
よく生きるために、自分を侮蔑しないためにも、理想や夢を決して捨ててはならない。

『ツァラトゥストラはかく語りき』

100年以上前に放たれたこの言葉が心に突き刺さりました。 思い当たる点があったのです。
若い女性シンガーは輝きの中にいました。突き抜けた彼女の歌は素晴らしく、眩しさも感じたのです。 「俺だって昔、少しは輝いていたはずだ」 なんてことが頭をよぎり始め、手が届きそうな所にいるがゆえに、嫉妬というものもまた生まれてくるんですね。

これ以上の言葉はニーチェが代弁してくれています。
そして最後にこの言葉を ・・・ 

死ぬのは決まっているのだから、ほがらかにやっていこう。
いつかは終わるのだから、全力で向かっていこう。
時間は限られているのだから、チャンスはいつも今だ。
嘆きわめくことなんか、オペラの役者にまかせておけ。

『力への意志』



『ツァラトゥストラはかく語りき』 (Also sprach Zarathustra)
1886年にリヒャルト・シュトラウスによって作曲されたこの交響詩は、映画 『2001年宇宙の旅』 で使われていることでよく知られています。 ニーチェの著作と同じ題名を持つ作品であるのは、ニーチェの影響を強く受けて書かれた曲であるからです。自らも大学で哲学を学んだシュトラウスは、ニーチェ主義者であったそうです。



世間の無理解と中傷の中、ひとりの友人もいなくなったニーチェは、精神錯乱状態となりやがて狂気の人となります。 1889年、44歳のときであったそうです。

晩年のニーチェは母の看護の元で暮らし、母亡きあとは妹とともに暮らし、自然の中で安らかな余生を送ったとのこと。 最晩年になってニーチェの名声は高まり、高台に住むニーチェを訪れるファンも多かったそうです。 それを知り救われた気持ちになりました。






超訳 ニーチェの言葉 エッセンシャル版(特装版)/ディスカヴァー・トゥエンティワン

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煙草、ブルース 、ロックン・ロール !

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毎月22日は禁煙の日。 数字の が、白鳥に似ているためスワン (Swan) ×2 で吸わん吸わん、禁煙の日だそうです。 もうちょっと違う日でなかったんですかね (ノω・、)
そういうわけで、"煙草とブルースとロックン・ロ~ル!" v(^O^)v

あっ吸いません、ではなくて吸います。でもなくてスイマセン m(..)m
煙草がからだに悪いことはわかっています。 吸わない人にとっては迷惑なものであるし、副流煙がとても有害であることも知っています。 私自身も何年も吸っていなかったのですが、仕事上のストレスその他によって、昨年末からまた吸い始めてしまいました。

それによって,、今さらでわかったのが喫煙者の肩身の狭さでしょうか。まず吸う場所がない! ビルの中でも、喫煙コーナーはほんの一画。ないとこもあるし、お店だって全面禁煙のとこもあるし。もはや地球悪です。きんえん


そういうわけでトップバッターはエリック・クラプト~ン ! (^O^)v


ERIC CLAPTON Shows Some Guitar Skills

今では煙草とは無縁の方のようですが、クラプトンと言えばギター・ヘッドに煙草を挟むあのスタイルでおなじみです。 昔、みんな真似してました。 誰でもが似合うわけでもないのに、一応やってみたいんですよ。

ブルース、ロック、それからジャズなんかもそうなのですが、雰囲気というものが大切な音楽なのです。 そしてポーズも。 そのポーズを作るツールとしても、煙草というのは重要なのです。

この映像、NHKの伝説のロック番組 「ヤング・ミュージック・ショウ」 で70年代に放送されたものと同じではないでしょうか。 どなたかご存知の方がいたら教えてほしいのですが。音の作り方や奏法を自ら解説しています。

それにしてもよどみなく流れるクラプトンのギター・プレイってほんとに素晴らしい! この映像からは、スローハンド奏法というものがよくわかります。指が遅いと言う意味ではなく、出ている音数にたいして、弦を押さえる指があまり動いていないように見えるところからついたものと言われています。チョーキングやビブラートなど、今ではギター奏法の基本としてあたりまえではありますが、それをロックの中で確立させたエリック・クラプトンというのは、やはり偉大なギタリストであると思います。

煙草をギターに挟むそのスタイルにおいても、情報の少なかった当時、日本ではこの映像のインパクトは大きなものがあったと想像できます。



STEVEN TYLER & JOE PERRY / I'm a King Bee

2003年、ニューヨークのラジオ・シティ・ホールで行われたライヴ。 ブルース生誕100年を記念しての、マーチン・スコセッシ監督のドキュメンタリー映画 『ライトニン・イン・ア・ボトル』 からの映像です。

エアロスミスとしてではなく、スティーヴン・タイラー & ジョー・ペリーとして出演しています。 B.B.キング、バディ・ガイ、ルース・ブラウン、ソロモン・バーク、クラレンス・ゲイトマウス・ブラウン 等、錚々たる本物たちの中にあっても、違和感なく溶け込んでいます。

ふたりともブルースを演るに足る修羅場をくぐってきていますからね。ふたりの音楽的ルーツはブルースにあるわけだし。 と言っても、ベック、クラプトン等のブリティッシュ・ブルースを経由してのもののようですが。

このひとたち70年代は、いわゆるロックン・ロール・ライフを地で行く、体に悪いことばかりをやってきたひとたちです。一度バンドはほとんど崩壊しますが、メンバー全員が更生施設に入り、体からドラッグを抜くなどしてクリーンになって復活を遂げたバンドなのです。 タバコぐらいは許したってぇ~!

それにしても様になっているなぁ。 エアロのライヴは90年代に3回ほど行きました。ジョー・ペリーのギターを持った立ち姿って、理屈抜きでかっこいい! ジョー・ペリーほど、背中で男の哀愁を語れるギタリストはいないですね (o^-')b



THE ROLLING STONES / Shattered

ミック・ジャガーも、当初は仲間たちと体に悪いことをかなりやっていたはずなのに、いつからかアスリートみたいなヴォーカリストになってしまいました。 不健康なキースと健康的なミックという対比が、また面白かったりするんですけどね。

煙草というのは間違いなく喉には悪いでしょう。 ヴォーカリストとして生き延びていくには、摂生した生活をしていくのは当然とも言えます。 昔、次郎吉で金子マリがずっと煙草を手放さずに、吸いながら歌っているのを見てかなり驚きました。 あれはいただけませんね。

ジョス・ストーンが煙草を吸うのを見て 「やめたほうがいい」 と、ミックは忠告したそうです。 健康オタク、ミックの前ではうっかり煙草も吸えないなぁ。 でも彼女のずば抜けた歌の才能を考えれば、同じイギリスの先輩シンガーとして言わずにはいられなかった、というのもあるとは思いますが。。

「くそ~! キースの野郎。 煙草なんか吸いながら演奏しやがって。こちとら体に悪いこと全部やめて、からだ鍛えているってのによ。ヴォーカリストはつらいんだぜ!」 なんてことをミックは心の底で思ってたりして ( ̄ヘ ̄)

喫煙ギタリストとしては、ツェッペリン時代のジミー・ペイジもかっこいいし、スラッシュなんかも様になっています。 白人だったら、ブルースを根っこに持つ渋めのギタリストのほうが、似合うような気がするのですが。 でもって "煙草とブルースとロックン・ロール・マスター" の称号にふさわしいロッカーは ・・・・
やっぱりヘヴィ・スモーカー、キース・リチャーズってことでいきたいっすね。 たばこ






ギターを始めた10代の頃、僕の部屋の壁はこのポスターがずっと占拠していました。
I ♥ E.C.
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